本格エンターテイメント時代小説作家:風一
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第一章    夕映えの鞆の浦

 天正五年十月、松永久秀は平蜘蛛の茶釜とともに信貴山城に爆死した。音羽に逼塞中の佐々木承禎(義賢は出家して抜閑斎承禎を号した)は、信長の伊賀侵攻も間近と判断して、末娘である久野姫を北畠に嫁いだ姉の波野姫を頼らせるため野津監物丞を案内に付けて鞆の津へ逃した。伊勢を追われた夫北畠具親が鞆の津滞在の足利義昭のもとに身を寄せていたからだ。それに、兄の義治が将軍後見役として鞆の仮幕舎にいた。
 甲賀で義昭に刺客を放った義治がこの地位にあるのだから、戦国の世の激変が偲ばれる。
 
 過去に拘れば今が生きられぬ。昨日の敵は今日の友なのだ。
 
 波野姫は男子を出産したばかりの頃で、鞆で生まれたその子は鞆麿と名付けられた。公家風の名前であるのは、北畠氏が公家の出自であったことによる。
 具親は還俗して、お家再興に乗り出した身であるが、鉄中砦に敗戦した頃から、できれば公家に戻り平穏に過ごしたいと願うようになっていた。
 妻の波野姫は鞆麿出産後の肥立ちもよく、回復するとすぐに乗馬して浜辺を駆けた。
妹久野姫も鞆に来てから、従兄弟にあたる武田五郎信景と語らう機会も増え、精彩を取り戻していた。音羽にいた頃は草木染や機織りに精を出す余り閉じ籠もりがちな久野姫であったのだが、瀬戸内の陽光が姫を明るく活発にさせたのか内気さは影を潜めた。

 具親、波野姫夫妻、久野姫、五郎信景の四人は、日の出の頃と、夕方、日に二回、毎日のように浜辺で馬を駆った。
 兵乱の世にあって、日頃から心身を鍛えて置くためである。
 鞆の浦には沢山の小島が点在している。
 潮が引くと、砂浜が現れ、島々の白砂青松を結び付け、陽射しのなかで、清爽(せいそう)な光沢を放っていた。
 浦の漁師たちは、四騎の若武者が夕映えの波打ち際を島から島へ、飛ぶがごとく凛然(りんぜん)と駆け抜ける様を、鮮明に心に留めている。
 馬上の姫君は日の光を受けて燦然(さんぜん)と輝いていた。

 その頃の久野姫はすでに三十路を越えていた。しかし、鞆の津の城には将軍をお守りする五郎信景がいつも凛々(りり)しく控えていて、心強く、二騎で青松を潜り抜け、波打ち際の白砂を思い切り疾駆することだけで十分幸せであったのだ。

 津之郷西深津の北畠館に、義治と信景の二人が、具親、波野姫、久野姫を尋ねて、鞆城からやって来たのは天正九年の師走初旬である。北畠館は蔵王山(二百二十六b)の中腹にあった。
 
 二人は西向きの部屋に通された。小春日のその日、部屋からは午後の日差しを浴びて、瀬戸内海に浮かぶ島々が遥か遠くまで見渡せた。
「これは素晴らしい眺めでござるな…」
 見晴らしの良さに五郎信景が唸る。それに具親が応えた。
「公方様にはこのようなよき住処(すみか)を賜り、感謝の念にたえませぬ」
「このような絶景を眺めて、心洗われるのもこれが最後かもしれませぬ。今日は皆様にお別れを申し上げに参上いたしました」
 五郎信景が言ったのを、義治が引きとって説明を加える。
「信景殿は上様の御教書を持って明日、甲斐の武田に発たれる…」
「甲斐に行けば二郎高定殿に会える。それがなにより楽しみじゃ。皆、元気で鞆にご滞在されていることを二郎殿にお伝えしたく、こうして参ったのじゃ」
 信景は波野姫、久野姫の顔を交互に見て言った。
 二郎高定とは波野姫、久野姫の兄のことだ。武田義信の娘を娶り、恵林寺に逗留している。
 長篠の戦いに大敗して以来、甲斐武田の存在は信長を脅かすほどの勢力になく、武田侵攻は時間の問題となっていた。 
 師走を迎えてから信長は侵攻のための兵糧を徳川家康に送り、戦備を整えている。すでに本願寺は信長と和睦して矛を収め、荒木村重の有岡城、別所長治の三木城も落ちて、信長の平定も残すは毛利のみとなりつつあった。
 部屋には沈黙がながれた。
 ややあって、それを払うように具親が言う。
「それでは今夜は武田殿をお送りする送別の宴を盛大に開くことに致しましょう」
「そうしたいのはやまやまなれど…実はな…今宵、評定が開かれることになった。公方様は具親殿にも参加せよと仰せなのじゃ」
 義治が将軍後見職の役目柄、具親に伝えた。
「わずかな時間であっても、一目なりとも、お一人お一人のお顔を確と心に刻みつけたくて、こうしてやって参りました。お別れの挨拶が叶った今、思い残すことはごさりませぬ。どうか、皆様も達者でお暮らし下さりませ…」
 五郎が別れの挨拶を述べる。
「そういう事であれば、皆で鞆の城まで信景殿をお送りさせていただこう。鞆麿や亀千代、それに明応丸も呼んで来るがよい」
 具親が監物丞に言付ける。二人は出された白湯(さゆ)を啜ると庭に出た。
 その年四歳になった鞆麿のあとを亀千代(九歳)と明応丸(十一歳)が追いかけるようにしてやって来た。
 亀千代は坂内家の嫡子で粛清された北畠具教の外孫にあたる。年長の明応丸は三瀬谷で具教と生死をともにした金児図書頭義正・義則親子の忘れ形見である。
「おお鞆麿か、おおきゅうなったな」
 義治が優しく頭を撫でてやる。
「そなたらは、確と若君をお守りいたすのじゃ」
 信景が亀千代と明応丸に穏やかに諭した。
「そなたらも同道するが良い。お城までお送り致すのじゃ」
 出仕の支度をすませた具親が子供たちに命じた。
 波野姫と久野姫も支度して出てきたので、野津監物丞を留守番に置いて、皆で二人を鞆城まで送って行くことにした。

 鞆城の手前の磯近い所に、天木番樹(むろのき)が群生しているところがある。むろの木はひのき科の常緑高木で高さ三丈五尺(十b以上)にもなる大木だ。昔から長寿を司る神の木として人々の崇敬をあつめた木である。

 吾(わ)妹子(ぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は
 常世にあれど見し人ぞなき

 義晴撰万葉百人一首歌留多の中にあった大伴旅人の歌だ。
 今は亡き義藤の前で、わずか五歳の久野姫はこの歌留多をしっかりと握っていた。それを祖父定頼が褒めてくれた。あの日のことを昨日のように今も鮮明に記憶している。それ以来、この歌はずっと久野姫とともにあった。歌は、久野姫の今を、あの時点で予告していたのであろうか。
『あの時、この身が鞆の浦で過ごすことになろうとは、思っても見ないことであった』
 久野姫はそのような思いをもって、あの日の歌留多会を懐かしむのである。そして、それからの歳月が、それは青春の最も輝かしいはずの季節であったのだが、流浪の中で、あっという間に過ぎ去ったことを思うとき、身を焦がすようなもの悲しい思いに囚われる。
『そして今また、敬慕し、側近くにいつまでも居たいと願う従兄弟の五郎様までが、遠い甲斐の国に発っていかれる。もしこの歌が、未来を予告するものであるならば、五郎様に再会することはとても叶わぬことであろう』
 大宰府までの往路、大伴旅人は、鞆の浦のむろの木に妻と二人の安全を祈願した。任果てて帰京の時、彼は再び鞆の浦に入港するが、ともに祈った妻は身罷っていてすでにこの世にはいなかった。人の世のはかないことを旅人は嘆く。

 久野姫は鞆の浦に来てから、何度もむろの木に一族の無事を祈った。波野姫も夫や子の武運長久を祈ってきた。
 この日は、皆で、むろの木に五郎信景の往路復路の安全と甲斐での武運長久を祈った。
 
 たとえ旅人のこの歌が将来を予告するものであったとしても、久野姫は敬愛する従兄弟の無事を、心から、この木に向かって、祈らずにはいられなかった。

 夕焼けの空を、鳶が悠々と舞っている。夕凪の鞆の浦は、淡い光のなかで、祈る人たちを優しく包んでいた。瀬戸内の空と海は、いつまでも赤く、美しく、夕映えの慈光を湛えている。


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