本格エンターテイメント時代小説作家:風一
本格エンターテイメント時代小説作家:一志晶綱へのお問い合わせ
本格エンターテイメント時代小説作家
 
 
第二章    五郎信景の最期

 天正十年二月、甲斐に侵攻して快進撃を続ける織田軍の前に往年の武田の勢いはなかった。
 信玄、勝頼二代の間、打ち続く戦に軍費は枯渇し、勝頼治世の九年間、領民にたいする搾取は年毎に厳しくなって、ついに怨嗟の声は頂点に達した。伊奈住民の中には自分の家に火をかけて焼き払い、織田方に走り込む者も出る始末で、武田の士気は阻喪した。
 勝頼は、上野、信濃、甲州の兵二万余の軍勢を動員して信州諏訪に陣を張ったが、すでに滝沢城、松尾城、飯田城と陥落して、この頃になると諏訪本陣の兵力も七千騎ほどに減少していた。 

 絶体絶命の形勢不利の中、穴山梅雪(信君)が織田に寝返ったことが追い討ちをかけた。
 梅雪は信玄の甥で、妻は信玄の娘である。武田家臣団の筆頭の地位にあったが、勝頼との間に領国支配をめぐる確執があり、その間隙を狙って家康が調略したため、一年程前から織田に内通していた。梅雪の奥方は、勝頼の姉に当たった。その子勝千代を、勝頼が婿としなかったことを恨み、甲府から本拠の下山へ引き揚げたのである。梅雪の調略が成ったことを聞いた信長は、甲斐における梅雪の領地を安堵した。
 
 諏訪の陣中を梅雪謀叛の一報が震撼させる。勝ち目の無くなったことを悟り、典厩信豊をはじめ、多くの旗本、武将らが諏訪の本を見捨てて、それぞれの本拠に引き払って行く。
 信玄の弟で、勝頼の叔父逍遥軒信廉などは伊奈口に出陣していて、北上する信忠軍に遭遇すると、一戦も交えることなく逃走して高遠城に逃げ込んだ。そのため勝頼の諏訪本陣には僅か一千余騎が残るのみである。やむなく勝頼は諏訪上原城を引き払い、新府に帰城した。
 
 承禎の次子二郎高定は、本次左京進、辻和泉守、伊賀者勘助、それに昨年末に義昭の使者として甲斐武田に派遣された武田五郎信景、大和阿波路守孝宗、使僧上福院らと諏訪上原城にいが、残存の一千騎を引き連れて戻った勝頼軍に合流して新府城に入った。
 
 信玄は、在世中、府中(甲府市)周辺には防御施設を構築しなかった。しかし、その武田もやがて始まろうとする信長の総攻撃に備えて、躑躅ケ崎館より約四里先の釜無川右岸の地に新城を着手した。城は七里ケ台の上に構築され、実質的な縄張りは重臣の真田安房守昌幸が行った。
 一年近い年月と労力とを投じて完成を急がせた新府城である。だが、僅か数カ月で織田軍が侵攻してきたため未完成のまま放置され、百人ほどの兵士でさえ籠城することが出来ない有様だ。仕方なく勝頼は評定を開いた。その席で十六歳の御曹司信勝が意中を吐露する。
「お父上は古府中のお城は堀一重の屋敷構えであると不足に思われ、これを法性院信玄公のお考え違いとし、長坂長閑、跡部大炊之介、秋山摂津守、典厩信豊などの人々と信玄公を悪しざまに言われ、この城を構えられたのです。いまになって未完成であるからとここを捨て、古府中に戻られるのは武門の者の名折れではありませぬか。古府中のお城をことごとく取り壊し、武田二十七代の昔より伝わる泉水を壊し、二抱えもある古松を切り倒されたのは、あとに心を残さず、この城に早く移るためではござりませなんだか。古府中に戻ろうとも、すでに何処にも籠もるべきところはありませぬ。寄る辺なき山野をさすらい逃るるよりも未完の新府城にて、御旗、楯無の鎧を焼き、この場に尋常にご切腹なさるべきかと存じまするが…」
 その声には勝頼側近に対して、敗戦の責任を問う響きがあった。
 聞いている高定も信勝のそういう思いは充分に理解出来た。勝頼は高定らの客人衆に対しても誠実でやさしかった。だが、その優しさに勝頼側近は甘えた。
 天正元年九月、客人衆となって以来、ずっと勝頼の側にいる高定は、近頃では勝頼側近に人材はいないと思うようになっていた。
 ほとんどの家臣が己の栄達と保身に汲々としていて、勝頼のために身を捨てて忠義を尽くそうと心底覚悟している者が少ない。このことが、今回の敗因であると高定は思った。辛辣な信勝の発言に、評定の場は悲しく静まり返るばかりである。
「どうかお屋形様には、上州吾妻に御籠りなさいまするように願い上げまする。わが沼田城は小城ではござりますが、越後上杉、相模北条の角遂の的たる要衝にござります。両者を操れば、十分に武田家再興の基盤足りうる場所と確信いたします」
 しばしあって口を開いたのは、真田昌幸であった。自分が縄張りした新府城が完成を見ないうちに、武田滅亡の危機に直面し、十分に責任を感じているらしい。すると、間髪を入れず声が飛んだ。
「それはなりませぬ。この城を出られるとあらば、是非とも我が岩殿城へお越し下さりますように。命をかけて一族領民でお屋形様をお守りいたしまする」
 言ったのは側近で佞姦(ねいかん)と評判の小山田信茂である。今まで、勝頼は信茂以外の進言を悉(ことごと)く退けていた。
 それを見越したように、
「恐れながら真田家は一徳斎幸隆以来、わずか三代にわたり召し使われた家筋にござります。真田沼田にお籠もりあるより、ご譜代の小山田兵衛が申し出た群内岩殿へのご籠城になされては…」
 佞臣の一人長坂長閑が勝頼に阿諛(あゆ)した。
 高定はまたかと思った。今までにこのような場面は幾度となく経験したことがあった。おおかたの予想どおり、勝頼は、一途に兵衛信茂の忠誠を信じ、それに従う意を述べた。
「それではこれより所領に立ち返り、お迎えの仕度を整え、ふたたび参じますので、その間、一先ず古府中へご避退くださりませ」
 信茂は平伏すると、深々と頭を下げ、せかれるように退席していった。十人にも満たぬ評定であったから、信茂が退散すると、絶望を押し包むその場の寂寥は深まるばかりであった。
 翌早暁(そうぎょう)、未完の新府城に火をかけた勝頼主従、女房衆も含めて六百余騎は古府中へ向けて退却していった。撤退するにあたり勝頼は高定を呼び、今日に至る参陣を労った。
「長い間の参陣、ご苦労でござった。そなたは近江の太守、将軍家にはよしなに伝えてもらいたい。千載一遇の機会あらば、そなたには是非とも信長を倒してほしい…。幸姫を幸せにな…。生きながらえればおそらく武田の血筋を伝える唯一の人となるでござろう…。さらばじゃ」
 これが高定の見た勝頼の最後の姿である。
 退却していく敗軍の殿(しんがり)は真田昌幸であった。武田一筋に仕えた昌幸は馬上から高定に黙礼して去っていったが、毅然とした後ろ姿は、二度と勝頼の佞臣どもとは共に戦わぬことを表明していた。勝頼の衰亡に直面し、かつて恩顧を受けた信玄への報恩を志したが佞臣どもの壁を打ち破ることは出来なかった。彼は沼田に帰るにちがいない。勝頼はまた一人勇者を失ったと思った。
 高定は憔悴して去っていく敗軍の一団を視界から消え去るまで見送った。
「殿、我等もそろそろ出立いたしませぬと…」
 辻和泉守が高定を促したのはどこからともなく人肉の焼き焦げる匂いが発ちはじめたからである。 
 出立の前、長坂長閑らの側近は、人質として新府城に止めおかれていた近隣領主の妻子数十人を惨殺していたのである。
「恵林寺に戻る」
 乗馬した二郎高定は辻和泉守、本次左京進、久内、鹿之助、勘介ら五人の従卒をしたがえ、五郎信景、大和孝宗、上福院らと牧の荘へ馬を駆った。
 
 恵林寺は臨済宗の寺で、元徳二年(一三三〇)に夢窓疎石によって開かれた。夢窓国師は伊勢安濃郡片田郷井戸の地頭佐々木朝綱の嫡男として生まれた。父朝綱は六角の祖となった泰綱の孫にあたり、国師の母は北条政知の娘であった。
 寿王丸と名乗っていた四歳の時、土地の支配権をめぐる東寺との紛争がもとで、東寺公文頼尊が動員した悪党三百余騎に攻め込まれ館を焼かれた。このため、伊勢を追われた一家は甲斐の国の地頭二階堂氏を頼って落延びた。しかし、その地で父朝綱は母を離縁し寿王丸を廃嫡にして、頼った牧の荘の領主二階堂行藤の妹を娶ってしまう。
 寿王丸は異郷で寂しい生活を始めることになり、他国で望みを失った母親はまもなく病没した。父親はなにかと領主に取り入り、新天地で力を得ようと強引に行動したが、やがて、争いごとに巻き込まれて死んでしまう。寿王丸はその後、平塩山寺に入寺して空阿に師事、真言宗や天台宗を学んだ。
 恵林寺が創建されたのはそれから五十二年後のことである。すでに高僧になっていて、北条高時から建仁寺や円覚寺に入ることを要請されていた疎石であったが、それを断って、甲斐の国牧の荘の東に庵を編んで移り住んだ。これに領主二階堂出羽守貞藤が、笛吹き川上流の所領を施入したのが恵林寺である。また、夢窓国師は土岐頼貞の招きを受けて、土岐川の畔に虎渓山永保寺を開いており、土岐氏との関係も深い高僧であった。

 高定と五郎が恵林寺に戻って五日目、信玄の葬儀から六年を迎えようとする天正十年三月十一日の夜のことである。
 黒衣の僧侶が恵林寺の山門を急ぎ足で入って行った。書院に通されたその僧侶は、名を紹覚と言った。

 紹覚は武田が滅亡したことを快川和尚に伝えた。高定主従や将軍家使者武田五郎らの一行も国師の横に控えて紹覚の告げる武田の末路に耳を澄ます。
「小山田八左衛門と武田左衛門佐伸光が小山田兵衛様の母を奪い、お屋形様に鉄砲を撃ちかけて織田に寝返ったのが、一昨日のことでござりました。このため、お供の方々のほとんどが逃げ散ってしまい、残ったのは主従合わせて僅か四十数人と言う有様…」
 紹覚は無念の余りしばし嗚咽し、さらに言を続けた。
「これでは如何ともなしがたく、鶴瀬に落ち、駒飼の山中に引きこもることになった次第にござります。お馬を引き出し、鞍を置いて差し上げる口取りとて居ず、侍大将の土屋惣蔵様と秋山紀伊守様がお屋形様のお馬の世話をなされ、亀の甲の御槍は阿部加賀守様とお守り役の温井常陸守様とで担いで行かれることになりました。その時点で、秋山摂津守や長坂長閑、跡部大炊介らの重役はお屋形様を見限ってしまったのでござりましょう、すでに何処(どこ)ぞへか、逐電(ちくでん)してお側に影さえ見せぬ始末。それでも、昨日は田野という七、八軒の集落に辿り着くことが叶い、平屋敷に柵を設けて陣を構えることが出来ました。ところが、天目山の土民ら三千余人が辻弥兵衛に煽動され、一揆を起こして攻め来たったのでござります。それだけではござりませぬ。下手からは滝川一益の軍勢三千余が、悔しいかな、裏切り者小山田信茂の家臣らに手引きされ川沿いの道を長々と連なって攻撃して来るではござりませぬか。ここに至り、とうとう万策尽き果ててなす術もなく、悲しいことではござりますが、本日、巳の刻(午前八時)、お屋形様は、一門の女房、子供を次々と刺殺なされてご自害、嫡子信勝様はお屋形様の自刃を見届けた後、討って出て斬り死になさいました。最後までお付き申し上げた四十一人の武者も皆討って出、残らずおとも仕りましてござります。ご自害して果てた侍女は二十三名。大竜寺の麟岳和尚もお屋形様のお供をして冥界に旅立たれました」
 武田家滅亡の悲報である。
 語り終えた紹覚ははらはらと涙を落とした。
「信長のことじゃ。武田家縁(ゆかり)のこの寺にも火を放ち、棄却することであろう。二郎殿、五郎殿、それに、将軍家御走衆の方々、今のうちに、立ち去られた方がよろしかろうとぞんずるが…」
 快川国師が高定と信景に甲斐退去を促す。
「この歳では、わしは無理じゃ。二郎、そなたらはわしにかまわず、今の内に行くがよい。幸姫や耀姫も今のうちなら間に合う…」
 土岐頼芸も甥の高定に諭した。
「叔父上もどうか我等と一緒に…」
「二郎、わしらが甲斐の武田を頼ったのは、この寺に快川がいたからじゃ。わしは快川と一緒にここに残る…。ここは信玄公の菩提寺、快川は大導師として寺と運命を共にする立場にある。快川は南泉寺以来長年にわたるわしの尊崇する国師じゃ。また、国師は土岐家の大導師でもある。…すでにわしは八十の長寿を迎えた。これ以上、生きようとは思わぬ。匿うてくれた信玄殿のご恩には快川と共に寺に身を捧げることで報謝する覚悟じゃ。そなたらはまだ若い。どうか捲土重来の思いを胸に、どこまでも生き延びるがよろしかろう…」
「高定殿、お屋形様の言われる通りになさるがよい」
 快川国師は土岐頼芸より一つ年上の八十一歳であった。 
 二人の長老に恵林寺退去を懇請された高定はその夜の内に、脱出の準備を整えた。
 高定と幸姫の間には、この年、六歳になる耀姫がいた。耀姫は母とともに恵林寺に匿われていたが、熟睡中を起こされ、母親に抱かれて眠ったまま剃髪、それが終わると、急いで僧衣に着替えさせられた。二郎高定、若狭の武田五郎信景、大和淡路守孝宗らも剃髪して僧衣に着替えた。  
 
 それぞれが脱出の準備を整え山門に集合したのが三月十二日の未だ開けやらぬ払暁である。
「一緒に行動すれば、多すぎて、かえって疑われる。ここは二手に分かれて落ち延びたほうが良い。二郎殿は奥方と耀姫を連れて一刻も早く立たれるがよい。御家来衆は確とお守りして行かれよ。わしは、淡路守や上福院らとすぐ後を追う。さ、さ、はよう行かれるがよい」
 武田信景の提案に従って、先ず、尼僧姿の幸姫母子を中にはさむようにして高定、本次左京進、辻和泉守、久内、鹿之助らの一団が表向きは京都妙心寺めざして山門を発った。
 それからしばらくして脱出の第二陣の三名が発とうとした時、武田信景がまた言った。
「そなたらは早く高定殿の後を追ってくれ。わしは、武田の祖廟に参ってからすぐ後を追う。必ず、追いつく故、わしのことは心配するな」
 大和淡路守孝宗と使僧上福院の二名は武田信景の言葉にせき立てられるように恵林寺を出発した。
 脱出の際、一人だけ恵林寺に残ることになった伊賀者がいた。勘助である。高定は勘助に、恵林寺に残ることになった叔父土岐頼芸の警護を命じた。
 別れの際、高定は勘助とは今生の分かれになると察して、形見に自分の兜と目結の鎧を与えている。

 三月十八日、高遠城に陣を移した信長は、翌日、上諏訪の法華寺に本陣を構えた。
 信長からの働きかけに応じて、勝頼を捨てた武田の重臣、跡部大炊助、長坂長閑、武田逍遙軒信廉、武田典厩信豊、小山田兵衛信茂らが、信長の約束を信じて、法華寺の本陣に降伏した。引き出された面々に、信長が吐き捨てる。
「そのほうらの性根は腐りきっておる。かくも惨めな武田の滅亡はそちらのような不忠の臣らが招いた結果であり、決して勝頼一人の罪ではない。そなたらは信ずるに足らぬゆえ、この場で成敗いたす。覚悟いたせ」
 うろたえる武田家旧臣を信長は即座に切り棄てさせた。
 二十日、木曽義政に築摩、安曇の信濃二郡を所領として与え、穴山梅雪には甲斐、駿河にある所領を安堵した。二十三日、滝川左近将監一益を召し、上野の国、ならびに佐久、小県の信濃二郡を与え、関東八州の警護を命じる。二十八日、甲州平定を終えた三位中将信忠は、戦捷報告のため、甲府躑躅ケ崎の陣から上諏訪法華寺の信長本陣へ参上する。その日は時節違いの時雨が降り寒風が吹きすさんだため凍え死ぬ兵士が多数出た。
「これより直轄軍は解散する。諸卒は国許へ帰し、頭分だけの供を命ずる」
 寒空を見上げた信長は兵卒の帰国を許可する。
 翌二十九日朝、信長は、甲斐の国を直轄領とし、代官に河尻与兵衛を任命した。次いで、駿河を家康に与えて、十数条にわたる甲斐、信濃の法令を発布し、昼過ぎてから、法華寺で名残の茶事を催した。亭主は千宗易、相伴は信忠、近衛前久、明智光秀であった。その席で、信長は信忠に命じる。
「今日よりその方に軍団の指揮を委ねる。当分は諏訪に留まり甲州・信濃の静謐を見届けよ。さて、恵林寺は佐々木義賢の次男を隠し置くと聞いた。六角は本願寺、武田、浅井、朝倉を画策し最後までわしに逆らった一人じゃ。そなたも覚えていよう、杉谷善住坊を使嗾してわしを狙撃させた男じゃ。奴は生きている限りわしを狙うに違いない。かつて奴らは織田包囲網なるものを作り、わしを封じ込めようとした。関白には懐かしい言葉ではないか。…光秀、そちは恵林寺に罷り、匿われている佐々木二郎を捕らえて参れ。差し出しを拒む時は、坊主どもを寺に押し込めて即刻焼き払い、皆殺しにするのじゃ」
「…恐れながら申し上げます。恵林寺の住持は帝より昨年、大通智勝という国師号を賜った名僧にござります。助命の儀、伏してお願い申しあげまする…」
 明智が助命を願い出たのは、快川和尚が同じ美濃土岐氏の出自であったからである。幼少の頃に光秀も父光綱と共に南泉寺で幾度も快川和尚の説法を聞いたことがある。光秀の人格形成や参禅、修学に多大の影響を与え、教養人としての光秀は快川の存在なくしてはあり得なかった。まさに心の師と呼ぶにふさわしい和尚である。
「わしが与えた国師ではない。恵林寺住持の助命、罷り成らぬ。よいか光秀、天下布武とは、武士が天下をほしいままにすることじゃ。天下のことはすべてこのわしの手中にある。努々(ゆめゆめ)忘れるでない」
 信長は光秀の助命嘆願を撥ねつけた。
 四月二日、大雨の中を、信長は予定通り諏訪を立って甲府の大ケ原に陣を移した。
 その日の午後、躑躅ケ崎の信忠は織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉らを奉行にして佐々木二郎隠し置く過怠を糾弾すべく恵林寺を包囲した。すでに二度程使者を出して、佐々木二郎らの引き渡しを求めていた。
「引き渡すことは出来ぬ。寺は守護不入、また信玄公の菩提寺でもある。即刻に立ち去れ」
 その都度快川は拒絶した。それで、三度目の使者には、光秀自身が行くことにした。一日中降り続けた雨も夕方には止んで、帯那山の向こうには、薄い雲におおわれた落日が白く光を放っている。光秀は湿りけをおびた山門の急な階段を十人の護衛を従えて登っていった。山門をくぐると、僧衆七、八名が光秀を取り囲み、そのまま楼上の僧坊に連れていく。部屋の中央に快川紹喜が座し、その左右に十余人の長老が控えている。
「お久しゅうござります。明智光秀にござります。国師様ご受難とうけたまわり、罷り越しました。どうか、武田の残党をお引き渡しの上、ひとまずこの寺を立ち退きくださりませ」
「いずれは、そなたが参るであろうと思うていた…。のう光秀、当寺は信玄公の菩提所ゆえ、織田の恨みをかうのはいたし方あるまい。されど寺には世俗の権威は及ばぬのが仕来りではなかったか。守護不入の権利は朝廷によって保護されてきたもの…。境内を取り巻く織田の軍勢を早々に立ち去らしめるが帝にお仕え申し上げる武人としてのそなたの役目ではないか」
「仰せごもっとも、なれど、天下布武の信長公に、その理は通じませぬ」
 武家による一元的支配を目指す信長にとって、神社仏閣が持つ守護不入の権は一刻も早く壊滅させねばならぬものである。
その時、国師の後ろに座っている長老が声を発した。
「光秀、わしを覚えているか」
 国師の影に隠れて、その面容を定かに捉えることが出来ない。
 光秀は立ち上がってそこに座る老人を見据えた。
「…土岐のお屋形様では……」
 声の主は土岐頼芸であった。光秀は父と訪れた南泉寺で主家筋に当たる土岐頼純、頼芸の兄弟に幾度も会っている。
 といっても、四十年も前のことで、光秀がやっと十五歳になって元服したての頃であった。今、頼芸を思い出すことが出来たのも、快川紹喜からの連想のせいで、その頃も頼芸はいつも快川和尚と共にいたのである。
「光秀、寺は守護不入、武家の権力は及ばぬ。朝廷により保証されているこの権利が信長により覆されるようでは、帝の存続さえ危ういと思わねばならぬ。土岐家は貞純親王を祖とする清和源氏。頼光、頼政と続いた武門の誉れ高き家筋じゃ。取り分け、鵺退治で名高い頼政公は治承三年、以仁王を戴いて平氏打倒の兵を挙げ、宇治の平等院で壮烈な討ち死にを遂げられた。その血をひく光秀が、誇りも信念も捨て去って、平氏を称する信長の走狗に成り果て、わが大導師、大通智勝国師が住持を勤め、土岐家と祖を同じくする清和源氏、信玄公の菩提所、恵林寺毀壊(きかい)に手を貸すとは本末転倒も甚だしい所行と言わねばならぬ。慎め、光秀。そなたは帝より丹波平定を賞され下賜(かし)の品まで頂戴したというではないか。賢きあたりにおかせられてもそなたをたよりにされているのはそなた自身が一番よく知っているはず。光秀、自分の心に恥じることをするものではない」
「……まことに面目なきことながら、…それはかないませぬ。ひとまずこの寺を立ち退き、後日を期してくださりませ」
「光秀にそれが出来るというのか」
 退去を促す光秀に和尚が詰め寄った。その勢いに乗じるように頼芸も言を続ける。
「そなたの心中にわしらが望む後日があるならば、わしは信長に下って、そちの後日を見届けてもよい。ただし、わしの余命は幾許もない。わしが生きている内にわしらが望む後日を実現することじゃ」
 頼芸は高齢である。和尚と共に恵林寺で死ぬもよし、しばし生き長らえて、光秀の心を試してみるもよしの思いであった。
「それではお屋形様、わたしについて、ひとまず下山下さりませ」
「これは面白い、お屋形様、光秀の心を確とお見届け下さりませ。拙僧は三界不変の法輪に仕える身、寺と運命を共にいたし、あの世から光秀の有り様を見届けることにいたしましょう」
 快川和尚は合掌して一礼すると、再び説法を始めた。光秀は身一つで下った土岐頼芸を護衛の武将に守らせて、黄昏の山門を降りていった。

 山門の両脇にはいつの間にか薪が堆く積み上げられている。そして、赤門の真下には床几に座った信忠が交渉遅しとの気持ちで恵林寺を睨み据えていた。光秀は連れ帰った者が旧主頼芸であることを信忠に報告した。すると信忠は頼芸の身柄は恵林寺征伐の奉行に預けるように指示する。
 
 その時である。山門を駆け下ってきた二騎があった。馬上の武者は抜刀している。
 多勢の織田軍めざして、死を覚悟しての討ち入りと思われた。
 先頭の武者は目結の鎧を纏(まと)っている。後に続く武者は鞍に武田菱の家紋が入っていた。
 二人とも一軍の将に相応しい武者姿である。二騎は群がり寄る織田の軍兵を数人なぎ倒した。
「殺さずからめ捕れ」
 信忠が命令する。長槍を持った雑兵が十数名前面に出て二騎を取り囲む。同時に銃声が響き、馬が撃たれて横転、落馬した二人は取り押さえられた。
「連れてこい」
 再び信忠が命じる。引き出された二人は四人の奉行衆が吟味した結果、目結の鎧の武将は佐々木二郎高定、武田菱の鞍を置いていた武将は若狭武田の五郎信景であることが判明した。
「武田五郎信景に間違いないか」
 信忠は土岐頼芸に尋ねた。
「相違ない」
 頼芸は悲痛な面持ちで答えた。
 武田五郎信景の方は、間違いなく当人であった。武田氏は鎮守府将軍源頼義の三男新羅三郎義光の子義清が甲斐国市河庄に配流されて、甲斐国北巨摩郡武田村に住んだことから、武田の冠者と称された。

 治承四年(一一八〇)、武田信義は頼朝に応じて挙兵、戦功を立て有力御家人になる。六代後の信武の長子信成が甲斐源氏の嫡流となり、三男氏信は安芸武田の祖となった。氏信から三代後の信繁に至り、長子信栄が足利義教に背いた一色義實を討ち、その巧により若狭の守護に任じられて、若狭武田の祖になり、安芸武田の方は四男元綱が継いだ。
 広範な血脈を誇る武田一党であったが、とうとう嫡流の甲斐武田は信長に滅ぼされてしまい、一人傍流若狭武田の五郎信景だけが恵林寺に止まることになってしまった。
 紹覚より甲斐武田の滅亡が知らされた時、信景は、
『自分も祖廟の地に果てるべきだ』
と覚悟した。恵林寺の僧侶らと焚殺されるより、武士らしく戦いの場で潔く死のうと思ったのだ。この決意は、高定一行と恵林寺で別れた時、すでに五郎信景の胸にあった。しかし、言えば従兄弟にあたる高定も必ず残ると言うに決まっている。分かっていたから心ならずも、大和孝宗に、
『武田の祖廟に参ってから必ずあとを追う』
と嘘を告げたのであった。
 一方、目結の鎧を纏っている武将は、高定が幸姫や耀姫を僧形に変えて寺を脱出した際、叔父頼芸を守るように言いつけて恵林寺に残した勘助である。勘助は高定から形見の鎧、兜を貰った時、伊賀の百姓の伜が名のある武将として戦い、死ねることをまず喜んだ。
 そして、高定として死ぬことが結果的には主君を助けることの栄誉に通じ、また、主君の恩に報いることでもあると信じて自分の影武者としての振る舞いに誇りと自信を持った。それで、信景が打って出たのを良い機会と見て、ともに戦ったのだ。
「佐々木二郎に相違ないか」
 光秀が勘助に向けた尋問に、
「相違ない」
 勘助と頼芸はほとんど同時に答えた。若狭の武田五郎と名乗った方は、間違いなく当人であることは光秀も知っていた。なぜならば五郎の姉が光秀の母であったからだ。長らく会っていないとはいえ叔父の顔を光秀が忘れるはずはなかった。しかし、佐々木二郎の方は光秀には当人であるかどうか分からなかった。明智十兵衛と名乗り承禎に仕えていた頃は、二郎高定は未だ元服に達せぬ少年であり、大原高保の養子になっていて観音寺の城で会うことはなかったからである。
「こ奴らを匿い、武田と一体して織田を敵とした快川紹喜、および恵林寺の過怠は償うてもらわねばならぬ。ただちに恵林寺に火をかけて棄却せよ。寺も僧もすべて焼き払え」
 信忠の命令を受けた部隊が境内に侵入し、寺内の僧侶から稚児にいたるまで一人も残さず楼門へ追い上げた。階下の薪の上に別部隊が藁を積み上げていく。
 やがて、奉行に命じられた将卒が火を放った。周辺に黒煙が立ちのぼり、猛火は忽ちのうちに燃え広がった。そのうち次第に煙がおさまって炎だけが轟々とあがり始めたとき、光秀や頼芸は目も当てられぬ酷い光景を目撃した。
 老若の僧侶、稚児、若衆ら合わせて百五十余人が炎の中で躍り上がり、跳び上がり、灼熱地獄の中で、互いに抱きつき、悶え苦しんで死に絶えていく阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
 その中で群僧の首座にある快川和尚だけは微動だにしない。
「碧巌録に思いをいたし、最後の修行をいたそう。安禅必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば火おのずから涼し」
 灼熱の中で、一同に呼びかけた快川は最期の偈を唱えて死んでいった。やがて楼門は焼けくずれて瓦ごと大きく落下し、人肉の焼け焦げる匂いが鼻を突いた。快川和尚も群僧も稚児もすべてが灰塵と化す。
「光秀、わしは決してこの所行を許さぬ。土岐の一門にとって許してはならぬことじゃ」
 縄を打たれた形相の頼芸が光秀に憤懣をぶちまける。
 恵林寺が燃え尽きて鎮火すると信忠は若狭の武田五郎信景と佐々木二郎高定に切腹を命じた。
『これで二郎様を永遠に安全な場所へ移し申し上げることが出来る』
 勘助は喜んで刃(やいば)を腹に当てた。

 光秀の叔父五郎と二郎の影武者勘助は燃え尽きた楼門の横で同時に腹をかっ割いて果てた。
 土岐頼芸については高齢であることを理由に、かつての重臣稲葉一鉄に身柄を預けられ、その夜のうちに信忠に従軍している一鉄の孫、典通に引き渡された。


第一章へ ←    第二章    → 第三章へ
Copyright 2006 Ichisi Akituna_comm ALL Right Reserved..