本格エンターテイメント時代小説作家:風一
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第五章    与志摩の回想

 天文十一年、甲賀に侵攻した北畠は六角に敗北して、和議を求めた。調停は、将軍家が直の扱いで介入することになり、御上使として政所代蜷川親俊が伊勢に差し遣わされた。その結果、北伊勢二郡を六角に割譲することと、定頼の次女、松姫が具教に輿入れすることの条件で和議が成立した。
 松姫が具教に嫁ぐ日、定頼は愛する我が娘に、心の籠もった嫁入り道具の数々を持たせたが、そのなかの一つが万葉百人一首歌留多であった。この歌留多は絵を幕府絵所預土佐光茂が描き、書は御家流の能書家尊鎮法親王の手になるもので、将軍義晴が近衛尚道の娘と桑実寺で挙式したとき、婚礼の労をとった定頼に記念として贈ったものである。定頼は年賀に姫たちを集めて、歌留多にうち興じたが、そのころから松姫は自分の婚礼の引き出物として、螺鈿の貝をまき散らした美しい漆箱とその中に込められた万葉百人一首歌留多を所望していた。
 それまで敵国として対立していて、行ったこともない山深い多気霧山城に嫁ぐことになった十五歳の松姫は、父定頼から贈られた万葉百人一首歌留多をしっかりと胸に抱きしめて、二十歳の女佐の臣・佐々木与志摩や同年の山路弾正胤常に伴われて観音寺城を発って行った。それは、天文十二年三月のことである。
 義賢(後出家して承禎)は、その日の妹松姫の健気で初々しい白無垢姿を今も鮮明にこころに留めている。

 松姫は北畠へ嫁いだ最初の正月、夫具教とともに姑を一志片野村の別邸に訪ねた。具教の母は細川高国の娘で羽林の母堂と呼ばれ、片野村は御台御料所であった。年賀の挨拶を済ませ、しばし談笑した後、母堂を囲み、松姫、それに母堂に仕える侍女たちも交えて百人一首歌留多をすることにした。何回か小倉百人一首を繰り返した後、松姫は姑に万葉百人一首歌留多を披露した。それは、夫の勧めもあり姑に見せるため城から持参したものである。
 誰もが、その歌留多の美しい絵や文字に心を奪われ、次は、これを用いて歌留多遊びを続けようということになった。万葉百人一首は珍しいこともあって、その日は皆こころから打ち興じた。

 かわのへの ゆつゆわむらに 草むさず 
  常にもがもな とこをとめにて

 何首目かに、侍女が吹黄刀自の歌を優雅によみあげた。その時、得意とする松姫よりも先にこの歌留多を払い取った者がいた。その者は萩野という侍女で、札を収めながらこの歌について知っていることを述べた。
「御台様、刀自のこの歌は、ここから少し先の波瀬川の畔で詠まれた歌にござります」

 羽林の母堂となごやかに時を過ごした松姫は霧山の城に帰ってから、萩野の言ったことについて夫に聞いてみた。
「萩野の言ったことなら、土地の者なら皆知っている。だが、萩野の口から言われると単なる伝承が疑いない事実として定着するから不思議なものよ。…萩野の兄は本居惣介といって七百石取りの武者頭であるが、万葉集の研鑽には日頃から目が無い男での…」
と言い、右筆で一志小原に住む一族衆の歌人、北畠権少将源国永を呼んで説明させた。
「十市の皇女さまの一行は川口の頓宮で宿を取られた三日目の朝、下世古においでになり、清水橋の袂の大岩をご覧になられました。万葉集二十二番のお歌は数多(あまた)の斎宮が禊をしたと言われる波瀬川の大岩の神々しさに打たれた吹黄刀自が、傷心の十市皇女をお慰めしようと詠んだ歌にござりまする。その地は波多の横山と呼ばれ、平安遷都されて後、斎宮群行の道筋が変更されてからは、この地に一志頓宮が置かれることになりました」
 頓宮というのは、斎王の群行(行列)が泊まった宿でのことで、伊勢神宮までの斎宮の宿泊所を言う。
 斎王は奈良時代に定められた制度で、天皇の名代として伊勢神宮の神に奉仕するために、宮中から派遣される未婚の皇女を言う。記録の上での最初の斎王は、天武天皇の娘で、大津皇子の姉にあたる大伯皇女であった。天皇家の未婚の皇女の中から卜(ぼく)定(じょう)によって選ばれるのが原則で、平安時代、斎宮に選ばれると、まず、初斎院の中に隔離されて身を清め、然る後、嵯峨野の野宮へと場所を移し、足掛け三年におよぶ厳しい精進の修行が続いた。三年目を迎えた九月、斎王は伊勢神宮の神嘗祭に合わせて都を発ち、伊勢神宮に向かう。出立の朝、斎王は、野宮を出て、桂川で禊を行い、平安宮に入り、大極殿の発遣の儀式に臨んだ。その際、天皇は平床の座で斎王を待ち、手ずから斎王の額髪に御櫛を挿した。天皇は斎王を同格と認め、伊勢神宮の祭祀を託したのである。都を後にした斎王は五泊六日の行程で『斎宮』に向かった。総勢七十人程度の行列で、これを『群行』と呼んだ。
 『頓宮』は、平安初期は近江国府、甲賀、中柘植の芝、鈴鹿、壱志であったが、後期には、中柘植の芝は廃止され、土山の垂水がこれにかわった。斎王は穢れを忌み、群行中でも潔斎を続けなければならない。従って、頓宮は清流の流れる川に近いことが条件であった。
 松姫の実家近江守護家は将軍の庇護者である。居城の観音寺城のある繖山には、西国三十三所観音霊場の一つ観音寺があった。
 紫式部が参篭して、源氏物語の構想を練ったと言われる石山寺も、西国三十三所観音霊場の一つで、こちらは、十三番、繖山観音寺は三十二番の札所である。定頼が瀬田川の橋の修築を本願寺に命じたことがあった。松姫が十一の頃で、定頼は、三人の姫たちを連れて石山寺に参篭した。
 その時、すぐ上の姉(土岐寄頼芸室)は松姫に、石山寺は、平安宮廷女流文人たちに深い感応を引き起こし、女流文学開花の舞台になったと教えてくれた。紫式部、和泉式部は勿論のこと、更級日記の菅原孝標の女、蜻蛉日記の右大将道綱の母、どの女流文人をあげても皆、石山寺に参篭し、深く、篤く信心していたと言う。
 松姫が物語文学に興味をもったのはそれからである。佐々木家は六角通りに館を持ち、都の公家とも交流があったので平安時代の物語集も多く伝えられていて、少女のころは部屋に籠もって一人心ゆくままに文学に打ち興じた。
 とりわけ、源氏物語のなかで、六条御息所が、源氏の子を宿した葵の上に嫉妬し、その生霊が、ついには出産を終えて間もない葵の上を呪い殺すくだりには心惹かれるものがあり、今もその筋立ては、はっきりと記憶している。そこに描かれているのは女の業の凄まじさであるが、それとは対照的に六条御息所の姫君が、斎王として精進潔斎の慎ましい日々を送っているという設定が、嫉妬に狂う母親と清浄に気高く生きる娘との対比を際立たせて、執念の恐ろしさ、おぞましさを鮮烈に印象づけていた。
 それに、松姫持参の万葉百人一首歌留多にもある大伯皇女の歌、『うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背と我れ見む』から、嫁ぎ先の北畠領内の古道が斎王たちの往還の地であったのだと知るにつけても、なんらの取り得もなく見えたその山間の閑散とした地がなぜか暖かく、懐かしく感じられはじめて、この地に愛着を持つようになってしまったのだ。
 それで、新しく奥方になった松姫の御台御料所を何処にするかという議案が北畠五家老たちによって出された時、このことが機縁になって、松姫は即座に御台御料所として波多の横山の地を具教に所望、許されてそこに御台屋敷を建てることにしたのである。

 国永の言う波多の横山の地は霧山の城から下之川を経て矢頭峠を下った波瀬川沿いにあった。
 雲出川の支流である波瀬川は室の口辺りに源流を発している。
 室の口は平維盛の嫡男六代君が斎藤五重秋(実盛嫡男)や文覚上人に守られて落延びていたという伝承のある所である。
 この辺りから波瀬川沿いに平地となり、東には黄金の波うつ美田が広がっている。この田からの収穫が波瀬川近くにある一志頓宮の食卓を飾ったのだ。
 時代が下ると、落ち武者として逃げ来たった平氏の児孫が帰農して耕したと思われる良田が御台屋敷の前にも広がっていた。鳥沖の台地である。
 
 新婚当初の松姫は、夫具教とともに、北畠の武運長久を霊験新たかとされる矢頭権現に、また、北畠家の菩提を下之川桜峠近くの金剛寶寺に祈ったが、その折は何時も、波瀬川を下って、頓宮跡に建てられた御台屋敷に逗留、夫婦水いらずの楽しい時を過ごしたものであった。
 ところが、弱肉強食の戦国の世は苛烈にその歯車を廻し始めた。
 天文十三年、具教は舅定頼の出兵要請に応えて、北伊勢の関盛信、長野藤定、美濃土岐頼芸、越前朝倉義景らと佐々木六角を援けて京極氏を攻め、幸運にも、十二月二十三日、定頼、義賢父子と北江五郡を平定、翌年、二月二十六日、具教は従五位上に叙せられ、二日後に左近中将に任じられた。

 天文十五年、松姫は懐妊する。産み月が厳寒の頃であったため、山間の霧山城よりも温暖な波多の横山の御台屋敷で出産することにした。女佐の臣・佐々木与志摩も御台屋敷に従う。北畠正室となって多気のお方様と呼ばれるようになった松姫は、出産が近づくと、生まれ来る子の無事を御台屋敷近くの波瀬川の大岩に祈っている。
 天文十六年正月晦日、多気のお方様は難産の末、男子を出産した。翌日、大湊の奉行で北畠筆頭家老鳥屋尾石見守が御台屋敷を訪ね、大湊の会合衆が奉じた祝儀の百度御祓太麻を多気のお方様に披露する。しかし、生まれたのは水ぶくれのようにぶよぶよ肥満した、なかなか首の据わらぬ病弱な子であった。
 その年の六月、安芸郡美里村桂畑に拠る長野源次郎藤定が南伊勢の支配権をめぐって北畠と対立した。そのため、晴具、具教父子は一志の前線基地、小山城、八太城等に兵を進めて臨戦態勢を敷く。
 この戦いのため、片野村に住む羽林の母堂と侍女たちが一時、御台屋敷に退避した。
 与志摩とともに女佐の臣として信北畠に入った山路弾正胤常は、北伊勢の情勢を掌握する命を受け、目付けとなって神戸家の高岡の城に入った。長野藤定は家所の城に分部与三左衛門光恒を入れ戦線を強化する。対する晴具(天祐)は宇陀の沢源五郎や秋山宗丹入道などを使嗾して長期戦に備えた。

 天文二十二年、北畠国永は、七夕に因んで、

 織女の そでのしがらみ ふせおきて 又あすよりや こゑむあだ波 

など七首を詠んだ。その月の二十六日、晴具(具国)は体調を崩し、平癒祈願のため伊勢神宮に参詣、家督を具教に譲る。
 長野氏との抗争は相変わらず続けられ、与志摩や国永は新しく国司になった北畠具教に従い、度々、葉野の戦場に赴いた。しかし、弘治年間になると、家城(いえき)城を預かる家城主水正、小山城主大多和兵部少輔、八太城主田上讃岐守らの働きで国司家の勢力が伸張してようやく終息の兆しが見え、永禄元年、長野藤定は遂に国司家へ和議を申し込む。結果、具教の次男具藤(二歳)が長野へ養子に入る条件で十数年にわたる伊勢中部の支配権を巡る抗争は終結をみた。
 波多の横山の御台屋敷周辺も平和が戻った。

 永禄二年秋、与志摩が丹精込めて育てた白菊を多気のお方松姫が詠む。

 ながむれば さきみだれつゝ 色々の 秋の名残を のこすしら菊

 それを受けて、御台屋敷にお方様のご機嫌伺いに訪れていた国永が返す。
 ことの葉の うらめずらしき 色そへて いく千とせか しら菊の花

 国永の返歌をゆったりと吟じた松の方がしみじみと言った。
「いく千歳か。のう、国永殿、わが子、竹松(後に信雄の傀儡になった国司具房)も十三になり元服が近いと言うに、ご存知のように成長がおぼつかず、総身に知恵が回らぬばかりか、一丁も歩けば息切れがする有様。あれでは国司家を継いでも、先行きがなんとも覚束ない。殿も御家を背負う器でないことを承知の上で、六角との盟約を慮(おもんばか)り、しぶしぶながらも家督を継がせる御積りのようじゃが、家臣の中には、大飯食らいの太肥御所とあからさまに揶揄する者もいる。国永殿、どうか竹松を良しなに願いますぞえ」
「…竹松君はああ見えて、心根の真っ直ぐな穏やかなお方。今にきっと殿様、御台様のお心に叶うよう健やかにご成長なさるに違いありませぬ。まだ、十歳とちょっとの御年、大器は晩成すと申すではありませぬか。切磋琢磨なさるのはこれからにござりますぞ。国永、竹松君のお役に立つことであれば、わが命に代えてお仕え申し上げる覚悟にござります」
 正室お松の方はこの頃から、侍女浜野とお倉を従えて、波多の横山の御台屋敷に住まうようになっていた。御台屋敷の生活全般は、お付きした女佐の臣佐々木与志摩が切り盛りしている。
 そのため、正室の居ない霧山の城では、側室お鈴の方(具藤生母)が誰よりも具教に寵愛されることとなった。
 翌、永禄三年七月九日、弘治年間の長野との交戦で重傷を負い、長きに渡って病床にあった国永の長男具永が死んだ。
『転変の世のならいとは思いながらも、親の心の闇いと晴れがたく、五七日の営みを』
と詞書して国永が詠んだ。

 松風も うき世のちりハ 払ハじな 月のミやどる こけのむしろに

 永禄四年正月、木造から庸安院殿が、桃の花に梅の花を添えて多気に送ってきたのを、具教が詠む。

 梅がかの にほへるかたに 立ちよれば 桃と一しほ 色ぞまされる

 国永がこれに応じて返歌する。

 桃ぞのや 折から梅の 咲きさびて 君にぞゆずる 千とせ三千世

 庸安院殿とは戸木の木造城主木造具康のことである。この年の正月の歌『何事をなすともなくて身は老いぬよわいも雪もつもる春哉』の歌からすると、すでにかなりの年配であったらしい。
 この時期、北畠と木造の関係は問題なく良好なものであった。しかし、数年後、侵略のDNAを持つ織田信長の調略に遭い両家は引き裂かれることになる。後年、国永が具教に背き、傀儡となった具房とともに織田信雄に降ることになるのは、松のお方の『竹松を良しなに』の言葉を斟酌したことと、竹松庸安院殿との交流が具教との交流よりも密接で暖かいものであったことによる。

 信長が甲賀の土豪にたいして、足利義昭を擁して上洛するので、忠節を尽くすように要請したのは永禄十一年八月二日のことであった。七日には佐和山城に出向き、佐久間信盛、丹羽五郎左衛門などを遣わして観音寺城の承禎(義賢)に服属するように求めた。義賢は定頼の七回忌を迎えた永禄元年に仏門に帰依し、抜関斎承禎を号している。信長は七日間、佐和山に滞在、従えば京都所司代にすると説得させたが、承禎は織田の軍門に下らなかった。そのため、義昭は平和裡に近江を通過することが不可能になり、九月七日、信長は尾張、美濃、北伊勢、徳川家康の援軍など合わせて四万の軍勢を率いて岐阜を発った。

 十一日、愛知川東岸に野陣、翌十二日、佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀らに箕作城を攻撃させ、これを陥れた。
 当時の佐々木六角の内情は、承禎の子義治が家老後藤但馬守を謀殺した永禄六年の観音寺騒動以後、家臣団は二分し、そこを信長に調略されたため、譜代の家臣であった後藤、進藤、池田、永田、九里、蒲生らは、すでに織田の軍門に降っていた。その上、信長は大軍でもって一城を包囲させ、一城ずつ撃破していく戦法を取った。六角の支城和田山と箕作城を封鎖して、鉄砲七百挺を用い、雨あられと銃弾を観音寺本城に撃ち込んだ。
「甲賀に退避する」
 下知した承禎は深夜、甲賀、伊賀の随兵たちに守らせて観音寺城を脱出、甲賀に落ちた。城落ちの際、お茶子谷や薬師見附から脱出した女中衆五十余名が桑実寺側から攻め上ってきた織田の雑兵どもの蹂躪を受け、救いようのない地獄絵図が展開された。女中衆の多くは自らの意志で死を選んだ。上洛後の信長は軍律を厳しくして京都の治安にあたったが、戦場における乱暴狼藉は許していた。
 お茶子谷から城落ちするはずであった義治の正室三好の方と承禎の継室土岐の御方はこの日から消息不明になった。
 承禎主従と一族はひとまず甲賀の隠れ里、杉谷に逃れていた。六角氏は高頼の時代より甲賀、伊賀のどこそこにこのような緊急避難用の小城を構築していたのである。
 音羽に逼塞した承禎のもとへ妹松姫の女佐の臣佐々木与志摩が訪ねたのは永禄十二年六月初旬のことである。その日、亀寿丸の祖父になった善住坊は、子の誕生に力を得て捲土重来を決意した承禎の命を受け、弟與五郎、同輩黒川與次郎らと本能寺から硝石を買い込んで、荷駄とともに帰って来たところであった。
「丁度良いところに帰って来た。そなたらも与志摩殿の話を聞くが良い」
 縁側に立ち、半兵衛が手招きするので、三人も座に加わった。
「国司家の三男坊木造具政が織田に内通したらしい」
 与志摩来訪の目的を承禎が皆に語った。
「それは一大事、北畠の御台様に厄難は及びませぬか」
 半兵衛が心配顔で松姫の安否を訊ねた。
「今のところは大丈夫にござります。木造の家中にも織田に味方することに反対を唱えた者がおりまして、先月の二十七日、木造家老水谷俊之殿主従十余名が、御台屋敷に木造謀反を注進に及びました。そこで、水谷殿と直ちに大河内城の大御所様にお知らせいたし、また、多気御所の具房様へもご注進に馳せ向かった次第にござります」
 水谷らと与志摩が注進に及んだ大河内城には北畠具教が剃髪して入道不知斎と号し、国司職は嫡男具房に譲って隠居していた。
 しかし、霧山城で全権を委ねられた肥満の具房(竹松)では頼りにならず、間近に迫ったお家騒動の危機に、全軍の指揮を取れる人物は具教しかいなかった。
 具房は多気御所と呼ばれてはいたが、愚鈍で肥満の彼を人は大肥御所、大腹御所と軽んじていた。それに比べ具教は、以前、剣聖塚原土佐守卜伝が一志多気の里に足を留めて北畠一門に剣の道を教えた時、自ら川上八幡宮の滝に身を清めて剣技を極め、『一の太刀』の秘伝を授けられた。
 その後、上泉信綱が霧山城を訪れ、具教と手合わせしてみたが勝敗は決しなかった。そこで信綱も具教に新陰流の極意を伝授した。同時に信綱は柳生但馬守宗厳(石舟斎)を紹介し、具教と試合をさせてみたが、その手合わせで具教は石舟斎を破ったと言われる。
 具教が剣道三昧に耽るある日、塚原卜伝の養子彦四郎が霧山城を訪れて具教に願い出た。
「私が父より授けられた一の太刀と、御所様の一の太刀を比較致したく参上しました。是非ともご披露下さりませ」
 塚原卜伝は、一子相伝の『秘伝一の太刀』を養子には相続させなかった。それに不満を持った彦四郎は嘘を言い、形を披露させることでそれを盗もうとしたのだ。しかし、具教は快く応じて一の太刀を披露して見せた。結果、彦四郎は無事に『秘伝』を習得することが出来たという。
 「具教殿は愛も変わらず一の太刀に執心のご様子、元気なのは良いが、義輝(義藤)様の二の舞をされても困る。一の太刀を伝授された公方様は、生前、剣豪将軍の名をほしいままになされたが、古来の武道に目を塞がれたため、鉄砲への取り組みを疎かになされてしもうた。ワシは信長に数多の鉄砲を撃ちかけられて城を追われたゆえ、合戦には火縄が欠かせぬと骨身に沁みて解った。……ところで、なぜに木造は寝返った」
 承禎が与志摩に尋ねた。
「昨年の多気の春祭の折りに、木造家は、例年の定法を破って、兄の大御所様より、田丸、大河内、坂内の三御所の後ろに馬を並べるよう下知されてすっかり面目を失い、深く国司家を恨んでいたとのことでござります。日頃からの兄弟仲の悪さを、信長に突かれ、調略されたのでござりましょう」
「他家に介入し、主家に逆らう者を調略、家臣団の分裂を図ろうとする何時もの奴の手口じゃ」
 承禎も同じ手で信長からお家を分断された経験がある。家臣の多くは嫡男義治の観音寺騒動以来、氏綱の系統を主筋と仰いだ。
「加えて、木造の方が平地も多く、本城の霧山城の周辺は耕地の少ない山ばかり。分家とは言うものの農業生産においては木造の方がずっと上、何時の間にやら分家の力が本家を凌いでおりました」
「そのようなことには無頓着で剣の道にのみ邁進しておられたか」
「日頃から日置治部大夫も、『武術は臣たる者の業、御大将は采配だけを心得え、剣には深入りなさいますな』と頻りに小言を言うておりましたが、今日に至るまでお聞き入れ下さりません」
「気配りを怠ったのじゃ。油断があったのよ。ワシは兄弟をもたぬ故、弟に裏切られた具教殿の気持ちはよく分からぬが、後藤、進藤、蒲生、永田らの累代の家臣に離反されてしもうたあの時のワシの気持ちと同じで、さぞかし悔しいことであろうよ」
「その悔しさを晴らそうと、殿は木造城から取っていた人質二十人を雲出川の川べりで磔にしておしまいになられました…」
「…そうか、…もはや木造との和解はなるまいよのう…」
「御意にござりまする。…白衣に身を包み、小手を結わえられて三尺高い白木に磔られた二十人の人質の中に九歳になったばかりの可憐な少女がおりました。木造城の家老柘植三郎左衛門の娘で名を奈津と申す少女にござりました。奈津は黒髪の綺麗な、目元の涼しい利発な少女でしたが、処刑にあたる二名の兵士が槍の穂先を向けると、静かに、健気にも父のいる木造城に向かって軽く頭を下げ、『南無阿弥陀仏』と唱えて、すうっと目を閉じました。処刑の任に当たった兵士たちはその子の凛々しさに心うたれ、たじろいだようですが、もはやどうすることも出来ませぬ。中西甚太夫の号令一過、涙ながらに奈津を突いたそうにござりまする」
「何と酷いことを……。このような峻烈な仕打ちは敵の怨念をかきたてるだけで、己を窮地に追い込むことしかせぬ。具教殿も過(あやま)たれたものよ」
「可哀相なのは奈津の父柘植三郎左衛門で、娘の死を悼み、金子十助なる木造方の侍の力を借りて、夜暗くなってから雲出川を泳ぎ渡り、奈津の死体を奪い取ると、泣く泣く宝福寺に持ち帰り、養誉という上人に丁重に弔ってもらったそうにござります」
「人質とは言うものの幼き子を手に掛けるは非情よのう。ワシも今井の稚き嫡子が人質ゆえに斬殺される場に立ち会ったことがある。乱世に生きねばならぬ武士のこれ以上の辛い定めはない」
「御意。すでに木造城には安濃津の城から津田一安に率いられた織田の先兵が入城しているとのこと、国司家は秋山右近、沢源六郎、芳野宮内少輔らに精兵一千をつけ、具政の木造、戸木の両城を攻撃させました。しかし、娘を殺された家老柘植三郎左衛門が子の彦次郎や郎党の金子十助、六ノ助兄弟らと篭城の囲みを破り、木造城から出て奈津の仇を一人でも多く討とうと獅子奮迅の戦いぶり。これを見た木造勢は柘植一族にいたく同情し、勇猛果敢に迎え撃ったため国司家の軍勢は気合負けして後退する始末にござりました」
「柘植の娘を処刑したことが反逆の血を滾らせたのじゃ」
「御意、これで国司軍は、かつて与力であった長野、神戸、そして一族の木造の軍勢を失うことになりました」
 長野家に養子に入った具藤は、永禄五年(一五六二)に定藤が死ぬと七歳で当主になった。ところが昨年二月、信長が北伊勢に侵攻した時、分部光嘉らが信長の弟信包を長野の当主に迎えたため、父を頼り南伊勢に逃げ帰った。この時、神戸家は信長の攻撃を受け、圧倒的多数の敵軍に包囲され、やむなく和睦して、信長の三男三七郎信孝を養子として迎え、織田の軍門に下った。
 「木造が思いのままになった今、信長はふたたび伊勢に侵攻し、雲出川南岸の国司家領内を蹂躙するに違いない。具教殿に力を貸してやりたいが、今のワシではどうすることも出来ぬ。無念であるが、与志摩、…万が一の折は松姫を守って具教殿ともどもこの伊賀へ来るが良い。…これは今井の鉄砲鍛冶久右衛門の手になる短筒じゃ。松姫に渡してくれ」
 妹の身を案じる承禎は実弾とともに与志摩に託した。
「お屋形様には、ご心配をおかけするような事ばかりお知らせせねばならぬことをはなはだ恐縮に存じておりまする。我が御台屋敷周辺にも危機が迫っておりますれば、これにて失礼をばいたします」
「そうか、なにかあったらまた知らせてくれ。松姫をたのんだぞ…」
「承知致しました。それでは御免仕ります」
 夕闇が訪れて、伊賀の山風が周辺の木々をざわめかせた。
 かつて小脇の荘に住み、承禎の武将であった四郎高綱の末裔佐々木与志摩忠綱は、ふたたび女佐の臣となって波多の横山の御台屋敷へ帰って行った。


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