本格エンターテイメント時代小説作家:風一
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第六章    囚われた正室

 信長が伊勢の国司北畠具教を攻略するため、三河、遠江、尾張、美濃、近江、北伊勢の五万を超える大軍を率いて岐阜を発進したのは、与志摩が伊賀から帰って二ヶ月余り後の八月二十日のことだ。
 二十六日、木造の二人の家老柘植三郎左衛門、源浄院(滝川三郎兵衛尉雄利)らが北畠攻めの先兵となって南進、滝川一益(多喜久助)が随所に放火、光隆寺、善応寺などが悉く灰塵に帰した。
 同日、先鋒の木下藤吉郎が三千の精鋭を率いて阿坂城の攻撃を開始する。
 迎え撃つ北畠勢は、ここ二ヵ月にわたる同族木造や関、長野らとの血みどろな抗争の果てに迎えた織田の攻撃であったから、疲労困憊の極みにあり精彩を欠いていた。

 信長は馬廻り衆を引きつれて、雨あがりの嬉野平野を疾駆する。
「まず阿坂の城を落とせ」
 敵情視察の後、下知、戦闘の采配を藤吉郎に委ね、自身は雲出川北岸に引き下がった。
 阿坂城は白米城として著名である。これは、南北朝の昔、国司三代の満雅が足利の大軍五万を迎えて戦った時、兵糧攻めに遭い、水を止められて苦しんだが、馬の背に白米を流して水があるように見せかけて欺き、退却させた故事による。
 城は標高三町弱(三百十b)の枡形山の頂上にあり、天然の要害で、背後には重畳たる堀坂山系が吉野や紀州まで続き、谷間では北畠に仕える武士が半農半士となって山林を育て、田畑を耕していた。信長が藤吉郎に采配を委ね、雲出川北畔に宿営したのも、この山野からのゲリラ蜂起を懸念したためである。
 山中にはいく筋もの道が走り矢頭峠や波瀬越えに霧山城、大河内城、坂内城、三瀬谷城などへ連結していた。
 北畠勢は信長南進の道筋にあたる七つの城に兵力を分散して籠城、織田勢を牽制する作戦を取った。
 七城とは、今徳山城(安濃郡・城将奥山常陸介)、小森上野城(一志郡・城将藤方入道慶由)、八田城(一志郡・大多和兵部少輔)、曾原城(一志郡・天花寺小次郎広高)、岩内城(飯高郡・岩内主膳正光安)、船江城(飯高郡・本田小次郎親康、後見本田右衛門尉)、そして、藤吉郎秀吉の取り掛かった阿坂城である。
 阿坂城代は北畠四家老の一人、大宮入道含忍斎、城将は武蔵守、伯耆守、大之丞らの大宮一族、籠城の侍大将は本居惣助、田畑金太夫、沼田伊予守、末松右衛門左、梶尾主馬、寄金三郎兵衛、金児義正、二十郎、義則、佐波七郎兵衛、渡辺丹波などの一志周辺の侍である。
 与志摩も小原の北畠国永と御台屋敷から駒返りの道を馬跳ばして阿坂支援に駆けつけた。国永の子息具就は庸安院殿の息がかかりすでに木造方の武将になっていて家を二分している。
 与志摩が城に入ると時を同じくして、霧山の城から横山左馬助、秋田七郎次郎、斉藤小次郎、矢川下総守ら三百騎が矢頭越しに来援した。
「父祖伝来の山林田畑を尾張者に略奪される訳にはいかぬ」
 北畠に仕える者は半農の者が多く、殆どが山林業を営んでいる。
「天下に名の轟く白米の城を落とすわけには参らぬ」
 地史に詳しい本居惣助が檄を飛ばす。眼下には藤吉郎の指揮する三千の軍勢が小さく点在していた。右往左往している木下勢は阿坂城を前にして、手を拱(こまぬ)いているように見える。
 まもなく夕闇に閉ざされようとした薄暮の時刻、城の麓まで近寄った織田の騎馬武者が矢文を打ち込んだ。
『小城ながら天晴れな戦いぶりである。この城一つ落とすぐらい容易(たやす)いことであるが、あたら多数の勇士を死なせることは忍びない。弾正忠目指すは大河内の城のみである。ここは休戦にいたすが筋目ではないか』
 これを見た籠城の兵士は、すぐに返事の矢文を打ち返す。
『北畠は武門の名家。弓矢に誓って命ある限り戦うであろう。命惜しくば雲出川の向こう岸へ引き下がれ』
 翌早朝、知らせを受けた信長は矢文に激怒した。
「城下に火を放て、街が灰になる頃、援軍を差し向けるであろう」
 下知に従い焼き払うと、やがて信長からの援軍五千が到着する。これで気を強くした藤吉郎は全軍に攻撃命令を出し、自らも阿坂城の堀際まで先駆けして近づいた。
 その時、城中より、射程に入った藤吉郎に狙いを定めて弓弦を引き絞った者がいた。北畠家老阿坂城代大宮入道含忍斎の子大之丞景連である。
 弦を離れた鏑矢は、藤吉郎の左股にグサリと突き刺さる。秀吉は苦痛に顔を歪めてドウと落馬した。
「弓射る敵は教経か、はたまた為朝か。たった一人の矢先に恐れをなし攻め口を退くことのあるべきか」
 秀吉は芝居じみた所作で喚き散らし、大げさに這いずり回って、尚も前進を始めたが、弟の秀長が必死に押し留めて連れ帰った。藤吉郎秀吉、三十四歳。生まれて初めての矢傷であった。
「危ういところであったわ。秀長」
 冷静を取り戻した秀吉は、小笹徹之助を遣わし、信長の出馬を仰ぐ。出陣直前、信長は木造家老柘植三郎左衛門と滝川三郎兵衛を召し出し、もとは北畠に縁のあった二人から阿坂城の弱点について聞き質したが期待するものが得られなかった。そこで二人に地図を作らせることにした。柘植は娘奈津を殺された怨念から、作図に精通する安川孝之進、松本梅之助、野田哲馬、米倉允兵衛らの配下の侍に急ぎ地形を調べさせて、見取り図を作らせ、積極的に協力した。
 地図が完成すると、木造、関、安濃津の三城より三千の伊勢侍を招集、それに織田の五千、藤吉郎秀吉の三千、さらに蒲生、池田、稲葉らの軍を合わせて一万八千の兵で阿坂城を包囲、城下に火を放たせた。そのため山麓にあった北畠の菩提寺、浄眼寺は一瞬のうちに灰になった。焼き討ちの後、調べ尽くした手薄な谷間より侵攻をはじめ、鉄砲隊に盛んに銃弾を撃ち込ませた。
 四日目の早朝、秀吉は木造、関、長野の伊勢侍だけを前線に立たせて戦わせ、弟秀長の配下に矢文を射させた。
『攻めるも伊勢侍、守るも伊勢侍のみで何とも痛ましい限りである。無益な戦は止めにしたい』
 矢文は阿坂城将遠藤五郎左衛門の陣内に落ちた。遠藤は子の篠助と密談、一族郎党を助ける条件で織田に内通することにし、身内の者に命じて城内の火薬に水を掛けさせ、裏城戸よりコッソリと逃亡した。遠藤父子に寝返るように働きかけたのは浅井の家臣で同族の遠藤喜右衛門であったとされる。藤吉郎は遠藤父子の手引きで、間道より二百の兵を潜入させ要の曲輪を攻撃、難攻不落の城も次第に攻め込まれ、とうとうに落城の憂き目を見た。
 大宮入道含忍斎、武蔵守、大之丞らの主だった城将らは血路を開いて矢頭峠越えに大河内城へ落ちていった。具教は、阿坂が落城した段階で、信長の進路に牽制のため配置した軍団のすべてを大河内城に終結させ、本丸決戦に備えた。その後の阿坂城には滝川左近将監大伴宿祢一益の軍勢が押さえとして入城した。
 阿坂を脱出した与志摩は目付本居惣助や北畠国永、金児二十郎ら数人と山間の道を通って波瀬に抜け、波多の横山の御台屋敷に立ち寄った。正室松姫を救出して、霧山の城へ非難させなければならない。御台屋敷へ駆け込み、阿坂落城の急報を知らせようと松姫を探したが見当たらない。侍女浜野に聞くとお倉をつれて波瀬川の川辺に花を摘みに出られたという。
 松姫の御台屋敷での日課は、合戦に死んだ多くの北畠家臣の霊に読経し、弔うことであった。この時期、松姫は大岩の辺りの川べりで、侍女と仏前に生ける曼珠沙華を摘む。
 与志摩は捜しに出た。波多の横山を後(うし)ろにして鳥沖の田んぼが広がり、黄金の稲穂を垂れていた。波瀬川の清流が川床の大岩を洗って滔滔と音を立て、両岸には燃え立つように曼珠沙華の一群が咲き誇っている。前方の河畔に華を摘む松姫の姿があった。
「御台様、阿坂城が織田の手中に陥りました。生き残った城兵は皆、大河内城、霧山城へ退散致しております、織田の手勢は間もなくこの御台屋敷にもやってまいりましよう。とり急ぎ、殿のもとへお帰りくださりませ」
「与志摩、慌てずともよい。わたくしは大河内城にも霧山の城にも戻りとうはない。日頃から申している通り、松姫の死に場所はこの波多の横山の御台屋敷と決めている。織田の軍勢が来るならば来たでよいではないか。松姫の終生の住処はこの屋敷じゃ。もしもの時は、ここで潔く果てれば良いと覚悟も出来ている。それまで、心静かに、戦いに死した北畠家臣の霊を弔わせてはくれぬか」
「…しかし、ご正室であり、現国司の御母堂であらせられる御台様の御静動は、ご当家の戦局に多大なる影響を与えまするぞ…」
「わたくしが正室で具房の母であることなど、織田の者たちに分かりはせぬ。言わねばそれですむことじゃ。わたくしのことで北畠に迷惑が掛かるようなことがあれば、その時こそ死に時と言うもの。立派に死ねばそれで済むこと。心配してくれずともよい」
「…この六月に伊賀音羽に滞在のお屋形さまにお目通りいたしましたが、その折り、お屋形様は万が一の時は松姫様を伊賀音羽の里にお連れせよとお命じになられましたぞ…」
「それは兄上の心得違いというもの。信長に観音寺城を追われて伊賀に退去なされた兄上は気弱になっておられるのじゃ。…一旦、国司家に嫁いだわたくしがどうしてそのような真似ができよう。出来るはずもない。わたくしの最期は北畠に嫁いだ者として死なねば
ならぬのじゃ。…よいか与志摩、あの時、兄上はな、そなたが兄上から託された短筒で私に国司家の正室として潔く死ねと言うておいでなのじゃ。兄弟じゃゆえ、兄上のお考えはようわかるのじゃ…。与志摩には近江をはなれ、この伊勢の国で女佐の臣としてようわたくしに仕えてくれた。わたくしが奥深い霧山の城で心強くやってこれたのもすべて与志摩のお蔭じゃ。改めて礼を言わねばなりませぬ。ありがとう……。そなたが殿のもとへ帰り北畠と命運を共にするならばそれも好い。また兄上の随兵として、伊賀へ行きたければそれでもかまわぬ。好きにするがよい」
「何をおっしやいますか、勿体ないお言葉、それ程までにおっしゃるならば、与志摩もこの御台屋敷で最期までお方様のお供を仕ることに覚悟を定めましょう」
 この地に留まることを決意した二人が波瀬川の畔(ほとり)から御台屋敷に戻ってみると、本居惣助、北畠国永、金児二十郎らが遅しとばかり待ち構えていて急き立てた。
「御台様、お急ぎくだされ」
 そこで、与志摩が御台屋敷に留まることを告げると、惣助も納得して言った。
「私は大河内城の殿のもとで最期まで織田と戦って参ります。殿にお言付けがございますればお申しつけ下さりませ」
 しかし、松姫は何も言わなかった。
 阿坂城を落とした織田軍は、近辺の北畠小城は歯牙にもかけず、そのまま軍団を進めて町を焼き払い、八月二十八日、北畠具教の立て籠もる大河内城を包囲した。信長に下った進藤山城守、後藤喜三郎、蒲生右兵衛大夫、永田刑部少輔、青地駿河守、山岡美作、玉林などの近江の武将は池田恒興、丹羽五郎左衛門、滝川一益、稲葉伊予守などとともに大河内城の南方に配置された。
 秀吉は三千の兵を率い別動隊となって西へ動いた。霧山城に集まった北畠軍が大河内城に合流しないように食い止めるためである。
 雲出川沿いを西へ進撃した秀吉は、小山二ノ谷の小鳥山頂上にある大多和兵部少輔の山城を落とし、井生の成福寺に火をかけた。さらに白山まで侵攻して、白山神社にも放火する。このため本社三殿、長宮、神楽殿、絵馬殿、拝殿などことごとく焼亡、山内西方の八幡宮、北方の愛宕神社、東南方の八王子末社に至るまで類焼した。秀吉は次なる標的、井ノ口権現山の波瀬蔵人具祐の城に狙いを定めて、大仰から波瀬に入ったが、この辺りから阿坂城攻撃時に大宮大之丞景連に射抜かれた太股の矢傷が疼きだした。
 なにしろ十日ほど前まで、秀吉は兵庫の生野で戦っていた。
 生野銀山を支配する山名祐豊の出城生野城や、祐豊の居城此(この)隅(すみ)城など十八の城を攻め落とし、但馬から急遽帰陣したばかりである。遠征の疲労に加えて、阿坂で受けた矢傷が秀吉を苛(さいな)んだ。馬上で痛みを堪えて、なんとか下(しも)の世古(せこ)の辺りまでは来たが、高熱が出て、だんだん意識が混濁していく。
「兄者、ひどい脂汗じゃ。大丈夫か」
 馬を並べた秀長が心配する。
「心配するな。これしき……」
 虚ろに答えた藤吉郎秀吉は馬の首に額を押しつけると何も言わなくなった。
「孫平次、何処ぞ兄者を休ませるところはないか」
 振り返って滝孫平次(後の中村一氏)に尋ねる。
「あれに手頃な武家屋敷がみえまするが」
「…孫八郎、井ノ口の波瀬城までどのくらいの距離じゃな」
 今度は孫平次の弟孫八郎(後の中村一榮)に聞いた。
「半里程かと…」
「それほどの距離があるならば、あれでよい。あの家に兄者をお連れ申せ」
「承知仕った。安全かどうか、右近ら我が手の者に確かめさせることにいたしましよう」
 滝孫平次配下の騎馬七、八騎が偵察のため川縁の武家屋敷めざして駆けていく。太股の矢傷に馬上で気を失った秀吉は弟秀長の配慮により、川縁の武家屋敷で一時休息することになった。しかし、その瀟洒な武家屋敷こそ、正室松姫の住まう御台屋敷であったのだ。
「御台様、織田の兵らが、屋敷を借りたいとと押し入って来ました。仏間からお出になりませぬように……」
 与志摩は慌ただしく松姫に知らせて、ふたたび織田の兵士の対応に走った。織田の士卒は土足で上がり込み、襖を開け放って各部屋を改める。
 仏間に籠もっていた松姫も、与志摩や侍女たちが拘束されている部屋に引き立てられた。
 やがて門口に馬蹄の音がして、勢い良く五、六人の侍大将が上がり込み、次いで二人の武将に肩を支えられて総大将と思われる男が担ぎこまれた。
「北畠に仕える者か、名を名乗られよ」
 弟滝孫八郎が佐々木与志摩に尋ねる。
「只今、主家より勘気を被る身なれば名乗るを差し控えたい」
 与志摩は松姫の身を案じて出任せを言った。すると、その時であった。
「御貴殿、もしかして佐々木殿ではござりませぬか。…近江の…」
「…………」
「滝一政の子…孫平次です。…見覚えござりませぬか…」
 与志摩は邪魔者が入って、余計なことをしてくれるわいと思った。確かに滝孫平次である。甲賀多喜の出身で、滝川一益の父一勝が櫟野城から多喜城に移り多喜村を滝村に改める以前は多喜姓を名乗っていた。孫平次の父一政はかつて与志摩とともに佐々木六角の麾下にあった。松姫が北畠に嫁ぎ、与志摩が女佐の臣として北畠に来たのは天文十二年で、その頃、孫平次はまだ十一、二歳、孫八郎は十歳に満たなかった。多喜家は伴四党(大原、上野、伴、多喜)の一つで、甲賀多喜に四つの山城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城)を有していた。与志摩と一政はともに佐々木の庶流にあたり、その頃は、互いの屋敷を訪れ会って親密に交際していた。しかし、永禄二年(一五五九)一政四十五歳、孫平次二十七歳、孫八郎二十一歳の時、同族、多喜久助(滝川一益)の勧めもあって一家三百貫(三千石)の高祿をもって信長に仕官した。滝川一益の叔父恒利(一勝の弟)は尾張池田秀政の養子で、妻養徳院が信長の乳母、長男恒興は信長の乳兄弟である。
 この頃より信長は近江侵攻の布石として甲賀武士の調略に乗り出していた。孫平次は信長の小姓組に入ったが、墨俣に出兵する永禄八年に、孫八郎、右近らの弟とともに秀吉の与力に配属された。
 与志摩も風説でそのようなことは耳にしていたが、まさかこの御台屋敷で孫平次に会おうなどとは思ってもいなかった。
 孫平次、孫八郎、右近らの兄弟は伊勢侵攻に臨み、父親から与志摩が松姫について伊勢北畠に来ていることを知らされていた。与志摩は何も答えなかった。孫平次の目が一瞬険しく光る。
 担ぎ込まれた藤吉郎は半日、御台屋敷で横になっていたが、夜になると熱も下がり、腫れも引いて元気を取り戻した。
 だが、半日の遅れを取ってしまったため、波瀬城や霧山城の北畠家中を塞き止めて大河内城に合流せぬよう釘付けにすると言う初期の目的は達せられなかった。
 波瀬御所と称された北畠一族波瀬蔵人具祐は侍三百、足軽二百、合わせて五百の大将であったが、秀吉が御台御所で介護されている頃には、既に大河内入城を果たしていた。前夜の内に、与力矢川下野守、阿曽弾正、出丸四郎太夫、奥山常陸介らと井ノ口を脱出していたのである。
 ぐっすりと休んだせいか、痛みも取れて気分の良くなった秀吉が下知する。
「半日も遅れを取るとは情けなや。殿にお叱りを受けるに違いない。大河内城に向けてただちに出立じゃ」
 立ち上がったところへ滝孫平次が進駐に及ぶ。
「御大将、この屋敷内に北畠の奥方が匿われているのをご存じか」
 それから厳しい詮議が始まり、とうとう侍女のお倉が、お松の方の御台屋敷であることを白状した。
 その日から松姫は佐々木与志摩ともども木下秀吉の捕虜になった。秀吉は、治療のため立ち寄った館(やかた)で、敵軍の奥方を捕縛するという思わぬ戦果を得る。
「北畠正室と女佐の臣を人質として大河内城まで連れていく。孫八郎、そちに預けるゆえ、確と見張れ。大事な人質じゃ」
「承知仕った」
「先に参る。遅れるでないぞ」
 秀吉は先駆けして見えなくなった。

 馬上の人質、松姫と与志摩を中に挟んだ木下軍三千は、深夜の波瀬街道を室の口から矢頭谷に入り、仁王峠から下之川を経由して、八月二十九日早暁、大河内城の西方に陣取る氏家卜伝、佐久間信盛らの軍団と合流した。
 その間、人質とは思えない凛とした姿勢で気高く馬を駆る松のお方様に孫八郎は強く感銘している。
 大河内城は阿坂城の西北、五里余りの伊勢街道沿いにある。高さ三町程の小山の上にあり、麓は田畑の平地で、道も開け、攻撃側に立つ織田方からすれば兵の展開には恵まれていた。
 北畠具教は一志郡細首(一志郡松ケ崎村松ケ島)に館を築き、多気から移っていたが、織田の侵攻に遭い、細首には日置大膳亮を留め置き、自身は大河内城に入った。
 すでに国司家の精鋭は全て大河内城に集結している。大河内城は要害としてはそれほど天倹と言うほどのことはない。しかし、前面には伊勢平野が開け、後方には大和から伊賀に連なる山地を負っている。従ってこの地に拠れば敵軍を追い前進して旗を伊勢平野に立てることも出来るし、退いて多気の山城に最後の籠城戦を試みることも可能である。だが、織田の兵力五万に対して、大河内城に籠もる北畠軍は一万弱の劣勢にあった。
 秀吉が大河内城下に着陣した二十九日の払暁、桂瀬山に本陣を置く信長は総攻撃を命じた。緒戦は大手の広坂口と市場付近で、織田軍の先鋒、池田恒興の兵五百と、北畠の主力、日置大膳亮、家城主水祐の兵五百が激突する。
 池田勢は土倉四郎兵衛、八木粂右衛門らが先陣を駆け、北畠では槍の家城主水祐をはじめ、永井帯刀、小林図書頭、船木左馬助、阿村新左衛門らが獅子奮迅の働きであった。小半時の白兵戦が展開されたが、次第に織田勢が押しまくられて後退した。
 
 信長は九月八日、再度、稲葉伊予守、池田恒興、丹羽長秀らに攻撃を命じ、三手に別れて軍兵を繰り出したが急に雨が降りだす。そのため火縄銃が使えず、織田軍に多数の死傷者が出た。池田衆の攻め口では、馬廻りの朝日孫八郎、波多野弥三郎らが、また、丹羽衆の攻め口では、近松豊前守、神戸市介、寺沢弥九郎、溝口富助、金松久左衛門らが戦死した。北畠勢も家城の家臣、今尾蔵人、加藤五郎左衛門など勇猛な武将を失う。しかし、それでも怯(ひる)まず、船江城の本田美作守の率いる決死隊二十人が氏家卜伝の丹生寺の陣へ夜討ちをかけ氏家配下の三十六人が死んだ。 
 九月九日、信長は兵糧攻めに出た。滝川一益に命じて多気谷の国司御殿を焼き払わせ、周辺の稲はすべて刈り取らせた。
 大河内城では、北畠家老鳥屋尾岩見守が籠城に必要な糧食を確保していたためにすぐに落城することはなかった。しかし、戦局が長引き二ヵ月も経つと、食料も底を尽き、城内に餓死者が出るようになった。信長は和睦に持ち込むにはいい潮時と見て、柘植三郎左衛門に矢文を射させる。
『具教が多気城を去って隠退するならば、信長の子、茶筅丸を養子に遣る。これに同意するならば、今後、具教に対して粗略な扱いをしない。御正室の身柄は藤吉郎が預かっているが和談に同意すれば無事に送り返す』
 大河内城内では、食料、弾薬ともに欠乏、残るはただ精神力に縋るのみとなっていた。
「神国、伊勢を攻めるものはみずから滅ぶ。いずれ織田は撃退出来るであろう」
 三男の式部大輔や藏田喜右衛門らもこれに同調して主張する。
「敵が攻めあぐんでいる時こそ踏ん張らねばならぬ。時間稼ぎの和議申し入れなどに乗るでないぞ。今こそ攻撃じゃ…」
 これらの精神主義に対して合理派の水谷俊之が反論を申し立てる。
「兵は疲労困憊し、城内には厭戦の気分が流れております。時を稼ぐは我が方、また、養子として入れれば茶筅丸は人質も同然。それに、奥方様のことを考えれば和議が適当かと…」
 水谷俊之は木造の家老の身ながら具政が織田に寝返った時、一族十人と木造城を脱出、波多の横山の御台屋敷に至り、佐々木与志摩と大河内城の具教に木造謀叛を進駐した硬骨感である。  若いころは具教の小姓であった。数日にわたる議論の末、水谷の論が支持され、大勢を占めるに至ったため和議を求めることにした。
 十月四日、船江(飯南郡松江村、現松阪市内)の薬師寺において国司父子と信長の次男で十一歳の茶筅丸(のち信雄)とが親子の杯を交わし具房の養子となった。
 その日、具教、具房父子は大河内城を滝川一益と津田一安の両奉行に引き渡し、多気笠木の坂内御所へ退去する。開城と同時に木下軍に人質となっていた北畠正室松の方と女佐の臣佐々木与志摩は無事解放された。
 叔母でさえ刑死に至らしめる信長の陣営にあって、松の方が事なきを得たのは異例のことで、女佐の臣与志摩が側にお付きしていたことと、二人を人質として預かった滝孫平次、孫八郎、右近らの兄弟がかつて譜代旧恩をうけた家の姫君として手厚く配慮してくれたことによる。
 具教の退去した多気笠木の坂内御所は娘小坂御前の婿坂内兵庫頭具義の城であった。
 信長の命を受けた滝孫八郎(中村一榮)はお松の方と与志摩の二人の人質を丁重に坂内御所に送り届けた。
 具教が目の中に入れても痛くないほど可愛がった娘の小坂御前は亀千代をあやしながら松の方の無事を喜んでくれた。この坂内御所には具教の寵愛する内室お鈴の方もいる。お鈴の方は次男具藤、三男親成、長女小坂御前、次女千代御前の生母であった。松の方は二日で具教のいる坂内御所を辞退し、与志摩を連れて再び波瀬川畔の波多の横山にある御台屋敷へ帰った。
 茶筅丸は十月下旬、大河内城に入ることになった。
 信長は茶筅丸が若年であることを口実に、多くの腹心の武将に守らせ、津田一安を南方奉行に命じた。その後、滝川一益に安濃津、渋見、木造を、弟信包に上野の城を守らせる仕置きをし、霧山城、田丸城を始め伊勢の諸城を取り壊すように命じて伊勢神宮に参拝、山田の堤源介の邸に泊まり、九日に千草越え、十日、近江市原泊まりで上洛、伊勢を去った。


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