本格エンターテイメント時代小説作家:一志晶綱
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 TOPページ >> 「〜戦国ルネ・サンス〜 承禎一念の心詳細
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 将軍足利義晴が桑実寺に動座したとき、松永久秀にそそのかされた桂女お福に毒を盛られたが、幸いにも命を落とさずに済んだ。それはお福が丁度身篭っていて、生まれ来る子に因果応報の災いが及ばないように、また、一方では、依頼者久秀にも顔が立つように毒薬の量を調節したためである。将軍の庇護者近江守護佐々木定頼は、これに懲りて、桑実寺から女人を追放、義晴には桑実寺の徒然を、万葉百人一首を編纂して暮らすように勧めた。
 万葉百人一首が完成するとそれは、絵を土佐光茂が、書を尊鎮法親王が担当して百人一首歌留多に作られた。この歌留多は、義晴が近衛尚道の娘と婚礼した時、仲介の労を取った定頼に与えられた。天文二十年三月下旬、定頼は朽木谷に逼塞する義晴の子義藤(後の義輝)を慰め励まそうと、今は亡き義藤の父義晴が編纂した万葉百人一首歌留多を用いての歌会を催すことにした。歌会には、若年の近衛前久や義輝の御台になった前久の妹里子、後本願寺の北方になった桜子、定頼の嫡子義賢と彼の娘たちも参加した。
 将軍の庇護者として近江に栄えた佐々木氏であったが、義賢の子、義治は家老後藤但馬守の台頭を妬み、後藤父子を斬殺するという観音寺騒動を引き起こした。このため有力家臣の多くは佐々木六角を離反した。挙句の果て、信長上洛時に、義賢義治父子は観音寺城を駆逐されてしまう。失うものの無くなった義賢(出家して承禎)は金森寺内に籠もり、本願寺と同盟して信長と戦う。その時、金森寺内には、既得権として諸国往来勝手を朝廷から許されている『道々の輩』と呼ばれる自由の民がいた。鍛冶、鋳物師、木地師、大工らの手工業に携わる者、湖上陸路の権利を有する船頭、漁民、馬借、獅子舞や猿回しなどの大道芸人、加えて、各宗派の宗教人らである。その中にお福の子で桂女の小幸もいた。自治と自由を願うこれらの道々の輩は承禎と力を合わせて戦うがついに信長の天下布武に制せられてしまう。しかし、その後、小幸の子、小萩は刑死した杉谷善住坊の首を承禎に届けたことから、承禎と運命的な出会いをし、伊賀左平次とともに承禎に臣従して、苦心苦行の末に信長に一矢を報いる。信長に追われた江南の守護佐々木承禎と桂女三代を中心に据えた戦国群像を描いてみました。
一志晶綱
いちしあきつな

◆三重県一志郡一志町大字波瀬に生まれる。
◆同志社大学文学部文化学科国文学専攻卒業。

□作品
・異聞本能寺 (朝日新聞社より出版)
・〜歌と兵乱〜馬上の姫君
・承禎一念の心

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